yasyahime

夜叉姫変化

 

石神意応身

 

日が短くなった。

つるべ落としで沈まんとし、遠く霞む山の端から届く陽が、垣根の周りに植えられた草花が残菊に等しい姿を浮き上がらせていた。

八重はこの刻限になると男児でもあるまいに、幼き頃からその庭で真剣を振るい、剣の鍛錬と工夫を凝らすのが日課であった。既にその刃風の音は凄まじい域にあった。

 

それは武家であれば女といえど、刀法の触りくらいは素養として身に着けておかねばならぬ。ましてや直参旗本の大身である本夛三河の娘なのであるとの父親考えによる。

本夛は無役ではあるが、剣の腕は比類なき達人の域にあったから、その手ほどきは並みの道場稽古を超えるものであった。時の将軍綱吉とはいずれは武家の統領の地位を襲う者として遇されていたころからの幼少期に始まり共に柳生流を学んで以来肝胆の中であるから、しょっちゅうお呼びがかかり、ご前に参じて時を過ごすこともあるから、幕閣といえど本夛三河は軽くは扱えない身柄でもあった。

 

柳生新陰流の仕掛太刀の内容は、三学、九箇必勝、天狗抄、猿飛に分かれ、ほかに小太刀の技を丸橋としている。いずれも皆伝を受けて居る。

この小太刀の技、丸橋の手ほどきをしたのであった。

流派としては「ひきはだしない」による稽古をするのであるが、これにはよらず真剣を用いた。

武家の娘であるから、茶・生け花・琴・書・和歌など一通りは人後に落ちない技量に達しているが、一番興味をもって嵌ってしまったのが剣技であった。女だてらにと後悔しないでもないが、今更止め立てもできない。男子であったならと思うばかりである。
 自分自身が剣の道の極みに近いところで教えたのだから、学ぶ側も教えられるところに迷うところがなかった。本物に触れるということは、説明なしに伝わる。

鬼姫と呼ばれかねないのとは逆に、美しく育った娘が可愛くてならなかった。人目に触れて悪評が立たぬように、信頼する乳母と共に下屋敷に住まわせていた。


三学には一刀両断、斬釘截鉄、半開半向、右転左転、長短一味の五種の太刀数がある。

いずれも手と足の働きに工夫をこらし、敵が打ち込んでくるのを待って後の先の太刀を振るい、勝ちを得るのである。
 三学とは、禅にいう戒、定、慧のことである。すなわち戒は兵法の禁戒を守り、定は心を静め散乱することなきこと、慧は敵と己をあきらかに観照することの意であるとされる。

 柳生新陰流では宗矩の甥である兵庫助に至って、完璧な合撃の技法が完成された。
 実戦でこの技を使われた相手は、防ぎようもなく斬られる。

なぜ、相手が受け手の合わせ技を防げないかといえば、隙ありと見てすでにこちらを狙い打ちこんできているため、もはやその動きを止められないからである。
 受け手は間一髪の差で確実な勝利を得るのである。後の先である。

その勝ちを得るためのわずかな時間差を生み出すのが合撃(がつしうち)の技で、この技を身につけておれば、敵を必ず倒すことができるというのが剣理あった。

 丸橋とは、丸木橋を渡るときのように、我が身の中心の位を保って敵の太刀先三寸へ小太刀をつけ、鍔を楯とし戦う法である。
どの技も理詰めの動きで有無をいわさず敵を破局へ追い込んでゆく理詰めの剣であった。

手ほどき程度で済んでいたらよかったが、娘は天稟を示した。

工夫を重ね、いずれは父をも凌駕するのではないかと思えたが、八重自身は自分がどれほどの腕前なのかという自覚はなかった。

 

八重は乳母にせかされて琴を弾くことがある。

ある日、隣家よりそれに合わせるかのように、冴えた鼓の音が聞こえてきた。

乳母が、隣家も譜代の旗本家である大久保の屋敷なのだと言い、嫡子は鼓の名手として知られているのだと教えたが、それ以上のことは知らないようであった。

 

 

綱吉は、最近でこそ武断政治から文治政治に転換したことで「徳川の平和」をもたらした将軍としての評価がなされるようになっているが、犬公方と巷間では呼ばれた。

生類憐みの令は、五代将軍徳川綱吉が敷いたものである。生き物を大切にせよというお触れであるが、自身が戌年生まれであることもあり、特に犬を大事にせよとした。

生類憐みの令は、天下の悪法とも言われるが、もとは動物だけでなく、子供や老人、捨て子、妊婦などの弱者を保護するものであった。

さらに、綱吉は生類憐みの令を通じて医療制度を充実させ、江戸市民の健康増進をはかろうとしていた。

それまでは老人を捨てたり、子供を捨てる行為が横行していた。 子供を捨てるだけでなく、間引きと称して生まれた赤児を殺したり、育児放棄により衰弱死する子供も多かった。

綱吉は儒教の影響を強く受けていたので、このような状況を憂い、市民救済の法令を出したのであった。

儒教の中心をなす考え方は、仁義禮智信忠孝悌諱。

三綱(さんこう)とは儒教で、父子、夫婦、君臣のことで、基本的な人間関係を表す。

これに対し五常(ごじょう)とは儒教で、仁義礼智信を指す。

三綱が父子間の孝、夫婦間の貞、君臣間の忠という具体的な人間関係に対するのと較べ、五常は抽象的な道徳である。

現代においては三綱を強調して儒教を否定したい人もいれば、五常に焦点を当てて儒教を顧みる人もいる。解釈に幅の広さがあるのが儒教の特質とも言える。

五常のうち信を除く仁義礼智をとりわけ四徳と言う。

四徳の意味は『孟子(告子章句上)』に記されている。

「敬い慎む心や、是非を判別する心は誰でも持っている。このあわれみの心は仁であり、恥ずかしいと思う心は義であり、敬い慎む心は礼であり、是非を判別する心は智である。仁義礼智の徳は、決して外から貼り付けられたものではなく、自分がもともと持っているものである。人はぼんやりしていてそれでに気づいていないだけだ。」とする。

五常・仁義礼智信の意味といっても、孔子の言をまとめた『論語』をベースに、孟子、荀子、韓非子など古代より人によってその解釈は様々である。儒学を学ぼうとする者は、中国でも朝鮮でも日本でも、師匠の門下に入ってその解釈を学んだ。

音読みするとその意味が解りずらいが、訓読みすると解り易い。

仁はひとしであり、義はことわりであり、禮はうやまうである。

智は白日の下でも恥じない堂々たる知識、 信は、まことを述べる人の言葉。 

これに対し諱(き)は、日本では採用されなかった。訓読みでの“いみな”としての使われ方はあったが、論語の持つ上司の悪行には目を瞑るということは否定された。

 

生類憐みの令は何度も改定を重ねるうちに、しだいに内容がエスカレートしていったことで悪法という評価が定着した。

生類憐みの令が最初に発布されたのは、貞享2年(1685)であったが、その後24年間で100回以上も改定されている。

改定が進むうちに、鶏を殺しただけで死罪になったり、子犬を捨てた者を市中引き回しの上獄門に処するなど、市民を苦しめる悪法へと変わって行ったという事象の方が後の世まで残り伝えられる。

 

江戸幕府第5代将軍綱吉は、3代将軍家光の四男。

正保 (しょうほう)318日生まれ。幼名徳松。生母は本庄氏、後の桂昌院 (けいしょういん)

1680年(延宝85月兄4代将軍家綱の死後、5代将軍に就いた。

綱吉は将軍になるやただちに、譜代の門閥として幕政の実権を握っていた大老酒井忠清を罷免し、綱吉の将軍就任を支持した老中堀田正俊を大老とした。

さらには寵臣を側近に集め、その地位を高めて老中同格の側用人制度を新設し、自己の腹心で幕政の中枢を固めた。

これを手始めに幕臣に対し賞罰厳明の方策を仮借なく励行し、将軍の権威を絶大にしていくことで、とくに幕政上伝統的勢力をもつ譜代層を畏伏せしめた。併せて直轄領統治の刷新に努め、財政専任の老中を設けて堀田正俊をこれに任じ、勘定吟味薬を創置して勤務不良の代官を大量に処分した。

このような綱吉の初期の施政は「天和 (てんな)の治」などと称せられ、「享保(きょうほう)の改革」の前駆的意義が認められる。

しかし綱吉の気まぐれで偏執狂的性癖も一因となって、堀田正俊が城中で刺殺されてのちは、柳沢吉保ら寵臣の権勢のみが増大する傾向を生じた。

綱吉は幼少から儒学を愛好し、その精神を政治に反映させるべく、自らも幕臣に講義し、全国に忠孝奨励の高札を立て、孝子表彰の制度を設けた。しかしその好学は観念の遊戯の色濃く、当時の経済界の新しい展開への根本的対応策を欠き、幕府財政の悪化は進み、勘定奉行荻原重秀の建議で実施された貨幣悪鋳による経済界の混乱や物価騰貴を招き、一部役人と御用商人との腐敗した関係を生ぜしめた。

儒教の五常の徳(仁義礼智信)に日本では三つ加えられて八徳(仁義礼智信忠孝悌)になり、さらに二つ加わって十徳がある。

論語で有名な巧言令色鮮し仁でいう色は、ころころ変わる美辞麗句のことである。

武術家として修養する徳として、最期の二徳は「厳」と「勇」であるが、女子である八重にふさわしいものとは思えない。

 

柳沢吉保は上野国舘林藩士の長男として生まれ、1675年に18才で家督を継いだ時の禄高は530石。当時舘林藩主だった綱吉に、小姓として仕えるようになった。当時は保明という名前であった。

綱吉が将軍に就任すると、吉保は将軍の傍近く仕える小納戸役になり、1688年には将軍と老中の取り次ぎをする側用人に抜擢された。側用人は綱吉が最初に設置した役職で、老中と同じかそれ以上の待遇を受ける場合もあった。

側用人は文字どおり将軍のそば近くにいて、将軍の意向を老中に伝えたり、老中からの意見を将軍に伝える役目をする。老中にとっては側用人の機嫌をそこねると自分たちの悪口が将軍に吹き込まれることにもなりかねないため、ないがしろにはできない。身分としては老中より低いものの、結果的に側用人は大きな権力をもつことになる。ここに悪弊が生じなかったとは言い難い。 将軍にとっても口うるさい老中から距離を置いて、独裁的な政治を行うことができるため、わがままな性格の綱吉には好都合だったのである。

 

1694年、吉保は川越藩主となり、石高は72000石になった。待遇も老中格から老中上格(大老格)にまでなった上に、1701年には綱吉の名から一字を与えられ、このころから「吉保」と名乗るようになった。

まだまだ吉保は出世街道を駆け上り、これまで将軍一門しか治めることのなかった、甲斐(山梨)へ領知替えにより石高は15万石にもなった。他大名をどこかに押しやったのだともいえる。

文治政治を推し進め、儒学者(古学派)のを登用したことでも知られる。

将軍綱吉が死去すると、6代将軍となった徳川家宣は新井白石を重用し、柳沢吉保は隠居に追い込まれたが、それまで生き延びた。

 

八重が生まれ育った時代背景はそのようなものであった。

 

 

 

徳川四代将軍・家綱の時代、幕府の統治方針は、武力によって統治する「武断政治」から、学問や法令の拡充によって世を治める「文治政治」へと変わっていっていた。 家綱の弟であった綱吉は、若くから学問に親しむ秀才であった。綱吉が将来将軍になるとは誰も思ってもいなかった。

家綱が跡継ぎを残さず病床に倒れると、後継者問題が巻き起ったのであるが、 その時、綱吉を将軍に推したのが、水戸光圀であった。次期将軍には将軍家に最も近い血縁である綱吉がふさわしいと主張したのである。将軍・綱吉を生み出すきっかけを作ったのは、後に対立することもあった光圀だったのである。

光圀は生類憐みの令には反対を唱えていた。

 

 若かりし頃の血気盛んであった光圀は、幕府に「中国大陸に兵を出すべきだ、尊王攘夷が正しいんだ!」と強力に主張したが、もちろん、幕府はそんな意見を容れることはなかった。秀吉の朝鮮出兵に懲りて「もう外国を攻めたりなんてバカなことはしないで、内政を充実させよう」ということでできたのが徳川政権なのである。
 
水戸光圀というのは、つねにこういう「威勢のいい観念論」を押し付けてくる存在で、柳沢ら幕府の役人たち、現実に国家運営をしていかなければならない幕閣にとっては、目障りで仕方がない存在であったのは紛れもない事実である。暗殺まで考えるほどのことはなかっただろうが、できれば消えて欲しい存在であった。

 大陸出兵を却下された光圀は、せめて明の儒学者たちを保護したいと、水戸に連れて帰り「本場中国人の精神を吸収したい」と、彼らが食べていた中華料理を再現して食べたりした。これが「黄門サマが食べた元祖ラーメン」である。
 
彼ら中華からの亡命知識人たちをブレーンにして「大日本史」の編纂に取り掛かる。こうして「尊王攘夷」は水戸学の中核となり、幕末に大きく影響した。

 水戸光圀が編纂した「大日本史」が、幕末水戸藩の尊王攘夷思想の背骨となったことから、代々の水戸藩主は、光圀の思想を継ぐことを誇りとしていた。

 

光圀は若いころ手がつけられない不良だったことは、よく知られている。水戸藩主になって一転人格者になったように言われるが、人の地金というものは終生変わらない。

常に「血気盛ん」な方向に話を持っていくことで、綱吉の文治路線とは対照的な思想を生涯持ち続けた。
 
彼はたぶん「武士のくせに刀を抜いたこともない小役人ども」、その小役人(官僚)の象徴として柳沢という人物を据えた。

 

乳母である菊の娘である春が嫁いだこともあって、幼いころ一緒に遊んだ春が無事に子を授かることを願い、八重は爺を共にして参拝に出かけた。

春にとって男児を無事にもうけることは重大事であった。

水天宮は水及び子供に縁の深い神社であり、水には「流し出す」作用があるとして、このことから安産・病気治癒、水難除けのご利益があるとされていた。

併せて祀られている祭神(安徳天皇)が子供の守護神であることから安産・子授けのご利益があると信仰されていた。
 特に安産・子授けのご利益についてはよく知られている。

 

主祭神は天御中主神天地の始まりに現れた宇宙の最高神である。神というよりはこの世界、もしくは宇宙そのものとされる場合もある。全ての神々に先駆けて現れた為、安産祈願、子授けなどの御神徳(ご利益)があるとされている。

 安徳天皇は高倉天皇の第1皇子で平清盛の娘 徳子を母に持つ人物。三歳で即位したが源氏の台頭により平家一門とともに都落ちし、最後は壇ノ浦に入水した。時に八歳のことであった。

 

犬の神像も据えられている。この子宝犬をなでると安産のご利益があるとされている。
 子授け犬は親子の犬の像で、犬の周りには干支の漢字が書かれた半円状の玉が埋め込まれている。自分の干支が書いてある玉をなでて、子宝・安産・子供の成長を願うとご利益があるとされ、戌の日などには順番待ちの列ができるほどの人気となっていた。

戌とは動物の「犬」を意味し、十二支のひとつである。この十二支は年、月、日、方角、時間とあらゆるものにあてはめられるが、古来より十二支を「日」にあてはめた「戌の日」に安産祈願をするとお産が楽になると言われていた。
 これは犬は一度に多くの子供を産むにもかかわらずお産が軽いことから安産の神様として信仰されてきたことに由来する。
 戌の日は前述してあるとおり十二支のひとつであるから12日毎に巡ってくる。つまり戌の日は1ヶ月に23回、一年に30回ほどあるということになる。

 

八重が参拝を終えて境内外に出ると、そこでは幼い兄妹が野犬に襲われていた。

兄は妹を庇って棒切れで必死に犬を追い払おうとしていたが、犬の勢いは凄まじく、今にも妹は噛み伏せられそうであった。

ご定法を慮ってか、周りの者たちは誰一人これを救おうとする動きを見せられなかった。

見かねた八重が兄の持つ棒切れを受け取り犬を打ち据えて追い払ったのであるが、倒れている妹を抱き起している背後から喚き叫んで斬りかかった侍がいた。

咄嗟のことに爺が身を投げ出して庇ったのであるが、したたかに背中を切り裂かれた。

余りの理不尽さに、八重は棒切れを持ち直しその侍に立ち向かおうとしたとき、間に割って入った着流しの武士がいた。

斬りつけた侍は苦も無くその場になげつけられたのであるが「おのれ手向かい致すか!」と形相もすさまじく立ち上がった。

着流しの武士は抜き身を下げた侍を見やり、「その羽織の紋所を見ると柳沢家中の者か?」と問いかけた。

その侍は一呼吸ついて着流しの武士を見つめたが、その着物に鮮やかに浮かぶ葵の紋所を見ると、一気に気勢が削がれた。

水戸のご落胤と知られた松平主水であると悟ったのである。

如何に柳沢の権勢が盛んであるとはいえ、水戸家と事を構えるのは躊躇われた

「おのれ、覚えておれよ!」と捨て台詞を残して退散した。

見ていた者たちは大喝采であった。

主水は背中を切り裂かれた爺を介抱する八重の傍らに近づくと、自分の供回りを呼び寄せ搬送を指示した。命にまでは別状なさそうであったが、重体は重体であった。

助勢してくれたことに感謝しながら自らの身分を名乗り、主水のことも尋ねたのであった。

「いやなに、八重殿の身ごなしを見たらいらぬお節介だったかも知れぬが、これ以上の騒ぎにしない方が良いと思っただけのこと。礼には及ばない。」と、あっさりしたものであった。主水としても、柳沢のやることには眉を顰めていたということになる。

 

数日が過ぎ、何となく胸騒ぎがしてならないこともあって、八重は水天宮に再訪した。

そこで、数日前の騒ぎを目撃していた者から、あのとき棒切れを振り回して犬を追い払おうとした兄が、ご定法を盾にしたあの時の武士に惨殺されたと聞くに及んだ。

後に残った妹は天涯孤独となって長屋の家主のもとにあるという。

八重は菊に命じてその妹を引き取り、侍女として育てることにしたのである。

経緯を見ていた者たちは「姫様、くれぐれもご用心下さい。あの時の武士たちが面子を晴らすために、あの娘を打ち取らずにはおかぬと叫んでおりましたゆえ。」と告げたのであった。

そうは言っても、武家の屋敷に討入りなどはそうそう簡単にできることではないから、打ち捨てておくよりない。こちらからことを構えるというには当たらない。

 

しかし、柳沢の家中の者は執拗であった。八重の住まいを探り当て、監視を続けたのである。自分たちの力量では敵わぬから、剣技に優れた上役である目付木村又之助     に助成を頼んだのである。幕閣での権勢を保持するための陰の役割を果たしている中心人物でもあった。このような者が立ち働かねば、長くは支えられない政権でもあった。

松平主水は水天宮での一見以来、八重のことを一篇ならず気に入っていた。女であるには惜しい身のこなしにも、肩入れせずにはいられないと思っている。

主水も水天宮のまわりの住人から、八重が狙われているということを耳にしていた。

八重は引き取った娘に琴という名をつけ常に身元近くにおいてなにかにつけ鍛えていた。時折は市井に育った身に武家屋敷勤めは気詰まりであろうと、下屋敷近くの桜並木の道に連れ出して息抜きをさせる心配りもしていた。

菊はそんな八重に、「人通りの少ない場所に出向くのはおやめ下され」と意見したが、八重は意にも介さなかった。幼き頃から自由に振舞える環境に慣れていた。

そんな動向は、付け狙う柳沢家中の者が掴むのにさして日時を要しなかった。

暖かな陽ざしに誘われて、八重は琴を供にして出かけた。せめて小太刀くらいは携えていればよかったが、自分を守るすべに不安をもっていなかった。

待ち構えていたように二人の武士がその行く手に立ちはだかった。最初から殺気満々である。ものも言わず抜きは立った大刀を振りかざし斬りかかったのである。

身を躱して一人の太刀を奪い取ると、即座にその一人を叩き伏せた。息一つ乱していない。先般の事件で相手の力量は見切っていた。

「引きなされ」と叱咤した先に、かなりなりの良い男が立ち現れた。修羅場を数多く経験したらしい酷薄さが、変に落ち着いた動作に現れていた。腕は立ちそうであった。

「なるほど、女だてらにかなりな腕だ。しかし真剣相手にいつまで持つかな?助成はこないぞ。」

羽織を脱ぎ捨てると、事前に八重のことは聞いていたのか、襷をした身ごしらえは万全であった。打ち込まれた太刀を八重は奪った刀で辛うじて受け止めたが、鈍ら刀であったのか中ほどから折れてしまった。

傍らにいた琴は、八重から拝領した懐剣を抜き放ち、倒れている武士に「兄の仇」と叫んで斬りかかった。」

「やめなさい」と八重が目を少し放した隙を突いて木村又之助が振り下ろした剣は、浅傷ながら八重の肩先を切り裂いた。

不覚にも膝を突いてしまった八重に向かって勝ち誇ったように止めの太刀を振り下ろそうとしたが、八重は下から懐剣で木村の足の甲をしたたかに突き刺した。

木村はもんどりうってその場に倒れた。

「狼藉者」と大音声がして、松平主水がその場に登場した。

襲撃者たちは這う這うの体でその場から撤収するよりなかった。

「人が集まると面倒ゆえ、早々にこの場から離れなされ。後のことは拙者が処理しもうす。」と主水が懐から出して当ててくれた懐紙に、礼もそこそこに八重はその場から消えた。

家に帰ると手際よく傷の手当てをした。

乳母の菊は「だから申し上げていたのです。兄上様のお勤めに触りがでるようなことになったらとりかえしがつかないことになるのです。」と意見を繰り延べたが、八重は一向に意に介する様子を見せなかった。

小太刀を携えていさえすれば、おめおめ後れをとることはあるまいとの自信を深めた。

傷が癒えると、木立の鍔を外して背中に差し、上から羽織で覆って、以前に増して外にでるようになった。

兄の頼母は父以上に妹に対して甘く、かえって面白がった。


           つづく